ゲームを中心としてエンターテインメントの文脈で語られることの多いVR。しかし近年、人々の生活に密着したエッセンシャルな分野でも拡がりをみせています。
その一つが、イマクリエイト株式会社が手がけるVRプラットフォームの『ナップ』です。その特徴は「動きのシェア」を可能にすること。コロナ禍においては、ワクチンの打ち手養成、医学生の実習不足を解消するために、”医師の動きを医学部生にシェアする”という、これまでにないVRトレーニングを提供。医療研修のあり方を変えるツールとして注目を集めています。
そんな『ナップ』の開発に、Unityが活用されています。プロダクトマネージャーの葉山勝大氏、VR物理開発スペシャリストの久保田悟氏に、開発の経緯や得られた知見についてお話を伺いました。
「するVR」が効率的な学習を促す
──『ナップ』とはどのようなツールなのでしょうか?
葉山:身体の動きをシェアするVRプラットフォームです。一番の特徴は「見るVR」ではなく「するVR」を提供できること。たとえば、熟練者の動きをシェアすれば、初学者向けのトレーニングに役立ちます。VRで立体的に熟練者の「動き」を再現し、そのお手本をなぞるように身体を動かすことで、初学者は動作を効率的に身につけられます。
──どのような分野で活用されているのですか?
葉山:最近では医療分野での需要が高まっています。みなさんもご存じの通り、2021年は新型コロナウイルスのワクチン接種が進むなか、ワクチンの打ち手不足が大きな社会課題となりました。そこで京都大学大学院医学研究科の監修の下で開発したのが、『ナップ』を用いた医療従事者向けのVR注射シミュレーターです。
久保田:VR注射シミュレーターでは、新型コロナワクチンに代表される筋肉注射のスタンダードな手順を、4つのステップを通じて学べます。
3Dモデルによるお手本の動きを「見て学ぶ」ステップ1。ステップ2では、接種箇所の筋肉の様子を可視化しながら手順をおさらいします。ステップ3からはいよいよ実習パート。お手本を追いかけるように、学習者が実際に身体を動かしながら学んでいきます。最後のステップ4で、お手本なしで手順をイチから確認したら終了です。
──先ほど実際にシミュレーターを体験させていただいたのですが、思ったよりもずっと簡単に注射の手順を覚えることができました! 医療従事者の方であれば、さらに短時間で身につけられそうですね。
「けん玉」から生まれたVRトレーニング
──そもそも、どういった経緯で『ナップ』を開発することになったのでしょう?
葉山:『ナップ』の原型になっているのは、『けん玉できた!VR』というけん玉用のVRトレーニングツールなんです。元々、CTOが趣味でけん玉を嗜んでいて、その経験を生かしたVRトレーニングが作れないか、と。
開発当初にイメージしていたのは、映画『マトリックス』です。登場人物たちが、パソコンでソフトを読み込むように、カンフーやヘリコプターの操縦方法を「インストール」するシーンがあるじゃないですか。あんな風に、使い終わった後に、けん玉の上達を実感できるようなツールをつくりたいと考えました。
そのなかで生まれたのが、自分の身体を使ってお手本の動きをなぞる「するVR」というコンセプト。これを発展させ、さまざまな分野に応用できるプラットフォームとして汎用性を高めたのが、現在の『ナップ』です。
──原点がけん玉にあるのは意外でした。
久保田:実は僕も、VR物理開発スペシャリストになる以前は、けん玉のパフォーマーだったんです。とある大会で『けん玉できた!VR』を体験してみて、すごく感動して。自分もこんなものがつくってみたいと入社したのが今から3年前です。
──そうだったのですね。それまでに開発経験はあったのですか。
久保田:いえ、まったくの未経験からのスタートでした。現在、開発でメインに使っているエンジンはUnityですが、トレーニングやナレッジ、アセットが充実していたのもあって、学んで半年ほどで簡単なプロトタイプならつくれるようになっていました。
今はVR物理開発スペシャリストとして、複数のプロダクトの実装を並行して手がけていますが、アセットを活用することで実力以上のものがつくれている実感があります。経験が浅くてもイメージしたものを具現化しやすいですね。
リアルとVRの融合で、医学生の実習不足を解消
──医療分野への参入を決めたのは、何かきっかけがあったのでしょうか?
葉山:京都大学さんからの問い合わせです。「コロナ禍の影響で、医学部生が患者さんを相手にした診察実習が難しくなっている」と。その分をVRトレーニングで補えないかとご相談いただいたんです。ただ、私たち自身は、それまで医療分野での活用をまったく想定していなくて……。
──ということは開発メンバーに、医療に詳しい方はいなかったわけですよね。
久保田:そうなんです。だからまずは、医療知識のインプットからはじめなくてはならなくて。それこそ最初の2〜3日は、医学書を読み込んだり、参考になりそうな動画をあれこれ漁ったり、寝る間も惜しんで勉強しました。前提となる知識を共有できていないと、クライアントである京都大学さんにヒアリングしても、本当のニーズを引き出すことができませんからね。その上で、早い段階でプロトタイプを提出し、何度もフィードバックをいただきながら開発を進めていきました。
──開発にあたって、特に苦労した点はありますか?
久保田:触覚をどう再現するかには頭を悩ませました。診察という作業の特性上、やはり「触れる」という感覚も大切にしたくて。触覚グローブを用いることも考えたのですが、あまりスマートな解決方法ではありません。
最終的に採用したのが、実物の人体模型の上にVRを重ね合わせる手法です。そうして生まれた『ナップ:診察』では、腹部触診、胸部聴診、膝蓋腱反射の診察技術を習得できます。
──なるほど。VRとリアルを共存させることで、トレーニングの質を高めているのですね。反響はいかがですか?
葉山:おかげさまで好評です。「こんなトレーニングもつくれない?」という医療機関からの問い合わせも、数多くいただけるようになりました。
すでにご紹介したVR注射シミュレーターをはじめ、弘前大学さんと共同開発した放射線測定トレーニング『ナップ:RIサーベイ』など、いくつかの医療従事者向けトレーニングをリリースしています。ほかにも、現在進行形で新たなプロダクトの開発に取り組んでいるところです。
細やかな演出が生む、「飽きさせない」トレーニング
──実際に『ナップ』を用いた医療研修を体験された方からは、どのような感想が寄せられていますか。
葉山:『ナップ:診察』は全国の医療教育機関で100台以上が稼働中です。学習者のみなさまからは「新鮮な気持ちで学べた」というご感想が多いです。
VRという体験そのものが、まだまだ目新しいものなので、フレッシュな気持ちで飽きずに実習に取り組めるのだと思います。これもVRトレーニングのメリットのひとつではないでしょうか。今後、細かな検証が必要ですが、実際に学習効率も向上している印象です。
久保田:開発者として面白いと感じたのは、VR空間のつくりこみに関するご意見です。光景をすべてリアルに再現すると、かえってトレーニングの効率が下がることもあるというのがわかってきました。あくまで学習者にとって使い勝手の良いVR空間を構築することの大切さを、改めて実感しました。
──使い勝手の良さを高めるために、特に意識していることはありますか?
久保田:実は「ちょっとした演出」がすごく大切で。操作のためにVR上に表示されるボタンひとつとっても、「押している感」をどう演出するかで、ユーザー体験に大きな差が生まれるんです。
先ほど葉山も述べていたように、VRトレーニングは「体験自体の新鮮さ・楽しさ」も魅力なので、そこを演出の力でさらに高めていきたいと考えています。演出次第では、学びの質そのものをさらに向上させることもできるはずです。学習者自身の動きを残像として表示すれば、もっと複雑な手順でも簡単に覚えられるかもしれません。そういったVRならではの工夫は、さらに追求していきたいです。
「動き」そのものがアセットになる未来がやってくる
──お話を伺っていると、『ナップ』を用いたトレーニングは、医療に限らずさまざまな分野で活躍しそうですね。
葉山:そうですね。もちろん『ナップ』も万能ではなくて、効果があがりづらい分野もあるでしょう。たとえば、スポーツがそうです。
仮に、メジャーリーガーの大谷翔平選手そっくりのピッチングフォームを身につけたとしても、誰もが160km/hの速球を投げられるようにはなりません。それはピッチングという行為が、身体能力に深く依存しているからです。
けれど、診察や注射をはじめ、正しい手順を身につけることが優先される分野は『ナップ』が有効なツールになるはずです。
手順という意味では「作業」を覚えるのにも向いています。すでにイマクリエイトでは溶接作業のVRトレーニングもリリースしていますが、今後は重機の操縦訓練などにも生かせるかもしれません。
──多分野での開発をスムーズに進めるコツはありますか?
久保田:まずは自分たちが、身をもってその分野に触れることが大切だと感じています。溶接作業のVRトレーニングの担当者は実際に溶接ができるようになりましたし、僕も医療分野での開発に携わるなかで、注射や聴診の手順を身体で覚えていた。開発者自身がその分野に精通することが、ユーザビリティを高める近道なのではないでしょうか。
──実地での経験に基づいているからこそ、質の高いVRトレーニングを提供できるのですね。最後に『ナップ』の今後の展望を教えてください。
葉山:『ナップ』は単なる「トレーニングツール」ではなく、もっと多様に活用できると考えています。
先ほど野球の例をあげましたが、たとえ自分が160km/hの速球を投げられるようにならなくても、大谷選手のピッチングフォームを間近で眺められれば、それだけで嬉しいというファンも大勢いるはずですよね。
『ナップ』を使えば、そうやって「動き」そのものをデータ化し、シェアして、楽しめるものに変えられるんです。
──「動き」そのものが、『ナップ』によってアセット化されていく。
葉山:まさにそういったイメージです。「動き」って、とても価値のある情報なんですよ。VR上で誰かの3Dモデルをつくるにしても、体重のかけ方やちょっとした仕草を正確に再現してあげると、その人の存在感がグッと高まります。偉大なアスリートやアーティストの「動き」をデータとして保存しておけば、引退後や100年後でも、ファンはVR上でいつでも彼らに再会できるようになるかもしれません。
「動き」のアセット化は、そんな未来につながっていると考えています。
(文・福地敦/写真・木村文平)